調子に乗ってまた工場の話を。

これらは私の工場関連の収集物である。
以前は工業地帯に頻繁に足を運んでいたのだが、最近はとんとご無沙汰である。
少しでもあの場所の雰囲気を思い出せたらと色々購入してみたのだが、やはり臨場感に欠ける。見れば見るほど工業地帯に行きたくなるので、最近はあまり見ないようにしている。
何故、こんなにも工業地帯に惹かれるのか。
自分でも気になって、ちょっと考えてみたことがある。
きっかけは、まうラジに投稿したとおりである。
2年目の夏合宿の帰り道、山田さんの車に乗せて頂いて国道16号線を北上しているときに、京葉工業地帯を目の当たりにして衝撃を受けた。
車中の全員が、その異様な光景に釘付けになっていた。私もだ。
鳥肌が立った。
自分の知らなかった世界だと思った。
高架の自動車道から見渡す限り、果てしなく続くかのような一面の工場群。
無機質なパイプの造形は、機能性だけを追及している。
不規則に配置された大きな電球が煌々とそれらを照らし、フォルムを魅せていた。
こういった光景は、身近な所にはない故に、見た時の衝撃は計り知れないものがある。
私は前回の記事で写真を載せたときに「非日常」という言葉を用いたが、実はそれは違う。
この「工業地帯」というもの自体は、人の生活に非常に密接な筈である。
”密接”ではない。”生活そのもの”だ。
言うまでもなく、我々の身の回りのものの多くは、それら工場で生産されたものある。そしてまた、そこで多くの人々が働いている。
なのに、実際にその製品を作っている現場はというと、生活圏からかなり遠ざけられたところにあり、しかも”生活”という響きとは真逆の空気を持ったエリアとなっている。
私は、工業地帯に訪れると、この世で人間が生きていく姿、こうしなければ生きていけないという、なりふり構わない姿を感じ、
少し切なく、いとおしく、悲しい気持ちになる。
工業地帯は、決して美しいものではない。
自然の美しさに敵うものはない。
なのに、私は美しすぎる自然の中に身を置くと萎縮してしまう。
自然を敬い大切にしたいという気持ちはあるのだけれど、工業地帯にいる方がなぜか居心地がいい。
いつ事故が起きて巻き添えを食うともわからないのに。
排ガス、排水、騒音の発生源なのに。
ひどく無機質なこの空間こそが、人の息吹なのかも知れないと思ってしまう。
とても生々しく、「生」を感じてしまうのだ。
人の「生」は、その他の生き物たちにとってはひどく迷惑なものだろう。全ての生き物は、他の生き物と共存していかねばならないのだから、お互いのバランスを崩さぬようにしなければならない。
かつて人も、自然の中で、他と折り合いをつけながら生活することが出来ていた。
里山を作り、田畑を耕しながらずーっと生活していれば、環境破壊だなんだと大騒ぎすることもなかったかもしれない。
でも、折り合いをつけられるギリギリの線を、超えずには生きられないのが人の悲しい性である。
私ももちろん、石油製品、電気、ガスをバンバン使っている。
無駄遣いをしないように気をつけてはいるが、もう、全く使わないという生活は考えられない。
他にも、合成界面活性剤入りの製品は使わないとか、マイバッグを使うとか、ゴミの分別をするなど。
私が日々やっていることはこれくらいだ。
自然と共存していた太古の昔の生活とは程遠い。
工業地帯の無数のライトの輝きを見るたび、延々と続く稼動音を聞くたび、人が原始の、またはそれに近い生活に戻るのが極めて困難であることをひしひしと感じてしまうのだ。
近年、環境問題やら温暖化が取り沙汰されている。
新聞やニュースなどで報道するのは結構だが、まるで得体の知れない怪物のようなものが環境の悪化を引き起こしているかのようなニュアンスを感じるのは私だけだろうか。
地球環境を変えてしまったのは、私たち人間だ。私たちの、今の日常生活が、環境を変化させていっているのだ。
しかし、これ以上の悪化を食い止めんがために取っている対策は、今の生活水準を維持させることが前提である。
差し迫っている割には、とても消極的である。
仕方が無いのだ。
人はもう、原始の生活に戻れるような強さをなくしてしまったのだから。
工業地帯にいくといつも思う。
人間がこういう形で発展を遂げるのを、避けることは出来たのだろうか?
現在の状況を作り出してしまったことが人の罪だとするならば、それこそが人間を生み出してしまったこの星の運命なのではないかと考えてしまうのは危険な開き直りかもしれない。
しかし、人が自らの存在を害悪と嘆き、「生まれてすみません」と卑屈になってみることに意味はない。
果たして軌道修正が出来るのかどうかはわからないが、自己満足のような「エコ活動」を、私は地道に続けていく。。
文明を放棄しようという気概を持たない私の、これが精一杯なのである。
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