『そうだ、京都行こう』
JR東海のキャンベーンコピーである。
バックグラウンドに流れるMy favorite thingsの軽快優美なワルツにのせて映し出される春の古都。八雲立つ花々の奥から現れる古刹の幽玄が、彼岸のこの世に暮らす我々を誘う。
「・・・そうか、そうなのだ。私は今、京都に行きたいと感じたのだ。」
人が、「旅に出たい」と思うきっかけの一つに、このCFはなり得ている。
もちろんのこと、旅客旅行会社のコマーシャルのみが人を旅の空へと駆り立てるのではない。
そのきっかけはさまざまであろうが、日々の生活の中のある刹那に「ふと」思ったりしたことが、十分なきっかけになり得ることもある。
「そぞろ神の物に憑きて心を狂はせ」始めるきっかけに、である。
夢にまでみたあの地に、行ってみたい。
だれもがそれぞれに、思うところがあるだろう。
さていきなり話は飛んで、「夢にまでみる」夢の話。
夢と言っても立身出世やアメリカンドリームなどのそれではなく、睡眠中の夢である。
私は眠りが浅いためか、ほぼ毎日夢を見る。だいたいは他愛無い普段の生活の中の一風景であったりして、それが脈絡なくつながってゆく曖昧模糊としたものなのだが、私には幼い頃より何度となく見ている特定のシチュエーションがある。
それは「空を飛ぶ」夢だ。
大きく拡げた手足を翼に、空をかいて浮かびあがる。なんというか、飛ぶというより泳いでいる感覚に近い。
中空に吹く風に対し手のひらに仰角を付け一気に上昇。遥か高空、ではなくおよそ100m弱と言ったところから眼下の街を鳥瞰する。そこは見知っている家の近所であったり、通っていた学校であったりする。
リアルな高さ、リアルな風景、そしてなによりリアルな飛行感覚が実に気持ちいい。
さらにかき揚がって高圧電線鉄塔を越えるころになると、今度はリアルに高所の恐怖感も感ぜられる。上空の風は強く、吹き付ける風に対して体を水平にせねばどんどん後ろに流されてしまうほどだ。強風に涙を切らせながらしばしの高空眺望を楽しんだあと、頭を下げて一気に下降。ゴォォッという風切り音とともに、家々の屋根がぐんぐん迫ってくる。
この「空を飛ぶ夢」というものは、一般に「逃避願望」と診られるそうである。
私の場合あまりにリアルな感覚なので、それが深層心理からあれいでたものであると言われると正直戸惑いを覚えるが、確かに私は人よりも「逃避願望」が強い、という自嘲にも似た自覚があるので、なるほどそういうものかも知れない、とも思う。
・・・なにやらあちらこちらとふらついて冗長になってきたが、ここで話をマージすると、「そぞろ神に憑かれた心」と「逃避願望」の二つは、共鳴しあうものだ、と、そんなようなことを書こうとしているつもり。
春を迎え心機一転、まうログもリニューアルスタートというまことに喜ばしい新年度4月なのであるが、私は未だ前年度をおもいッキリ引きずっている状態である。今までも何度となくごめんなさいとかゆるしてとか言ってきたが、先月半ばから続いている物件が相当ヤッカイで、ここのところかなりクリティカルな状態に置かれている。
そんな中、2週間ほど前、フッと一日予定が空いた。
重複させている工事工程のうちの一つが一日早く終わり、ひとつが一日ずれたためである。
なかなか休みもとれぬまま朝早く夜遅い日々が続く。折角一日空いたのならゆっくり休んで明日からの業務に備えるべきであろう。
ところが朝起きて、フと、思った。
『・・・そうだ、海、行こう』
学生の頃、『海』と『課題』という全く異なった概念がニアリーイコールで結ばれていた私。
・・・まだ、勘違いしたままなのか?
きっかけの一つが今なにかと話題の整備計画道路。
先月ここ群馬で北関東道という高速道路が区間開通した。
前線開通はまだ2年以上先のことでまだ細切れ状態なのであるが、ゆくゆくは関越自動車と東北道・常磐道をつなげるものである。
この新しく開通した区間を通ってみたい。
そして常陸・茨城の海へ行ってみたい。
そぞろ神に、そう、誘われて、この胃が痛い毎日の世界から逃避した。
まぁ休みなんだから逃避という言葉もなんだけど。
そして私は、大洗(おおあらい)の海へ。
閑散とした砂浜で一服し、工事現場で毎日使っているためクルマに詰みっぱなしのカメラで海を写してみた。

ざぁぁぁっ・・・・

・・・っっぱ!ぁぁぁ〜ん


♪名も知ら〜ぬ 遠き島よ〜り(←多分この近辺) 流〜れ寄〜る
流木一つ。
松ぼっくり一つ。
語呂悪し。

さんふらわあ。
船腹をよく見ると「ふらの」とある。
「富良野か・・・」
すぐそこのターミナルまで行き、チケットを買えば、乗れるのである。
行けるのである。
むこうの世界へ。
あと10年若かったら、乗ってたかもしれない。
サイフに(口座にも)金入ってなかったろうけど。
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海は、いいね。
群馬にゃ、ないが。
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