2025/05/18 15:39
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2007/10/09 09:00
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最近まで気付かなかったことがある。 最近と言っても10年ちょっと前のことなのだが。 いや、気付かなかったのではない。封印されていたのだ。封印が解かれて、自分のその、思いの大きさに驚いたのだ。 私は、猫が好きだ。 猫。いい・・・。 人間の生活に密接に関わってきた生物だが、いくら近しい存在であっても、すべての人間に好かれているわけではない。心底苦手で、恐怖すら感じている人もいるだろう。 そういう人にとっては、今回の記事は不愉快以外の何物でもないだろう。申し訳ない。 でも私は思う。 猫のフォルムの美しさは、天下無双ではないかと。あ、ちょっと言い過ぎたか。 いやいや、猫の体は美しい。 歩く姿。 しなやかにうねり蛇行する身体。尻尾。足運び。 そして座り姿。 背中の緩やかなカーブ。きちんと揃えられた前足と、地面に押し付けられて『ぷにゅ』っとなった足先。折りたたまれてふっくらとしたラインを作る後ろ足。 もうすべて最高。 鼻から頭頂にかけての曲線。うすべったい耳の感触。においをかいでヒクヒクさせている鼻。不満そうな口。口のすぐ下に生えている短い毛。鋭い犬歯。まるで別の生き物のようにパタパタ動く尻尾。そして吸い込まれるように澄んだ、綺麗な瞳。 いい。たまらない。 あ~、もう書いているだけで脳からα波が出ちゃった。 猫は造形物のモチーフにされることも多い。絵描きにも猫好きが多いと聞く。まぁ、その美しさはここで言うまでもないことなのだが。 あえて言わずにいられないこの思い入れの強さ。 今はこんなにも惚れているのに、なぜ、この感覚が齢二十歳を過ぎるまで封印されていたのか。 祖母が猫嫌いだったのだ。 娘である私の母が幼少の頃は猫を飼っていたらしいので、生理的に受け付けないというわけではなかったのだろう。だが、私が小学校低学年の時に我が家を含むエリアをテリトリーにする猫が現れ、その存在が祖母をかなりイラつかせていた。何故かは分からないが、その猫が自分の家の敷地内で我が物顔でくつろぐ姿が許せなかったらしい。 猫との攻防戦が激化したのは、庭をプチ日本庭園風にしてからだ。 庭の一部に敷き詰められた砂利は、猫にとって恰好の青空トイレとなってしまった。 連日忌々しい猫によって軒先に悪臭をもたらされ、祖母は怒りを露にした。 猫の通り道である塀の上に、釘を何本も打ちつけ剣山のようにした板を置いたり、『ネコヨラズ』という、ネーミングですべてを語る小林製薬もまっつぁおな、激烈な臭気を放つ薬剤を使用したりして猫と戦う祖母を見ていたら、この家で猫を愛玩の対象として見なすことは罪悪であると思い込んでしまったのだ。 心の片隅で感じる「あ・・かわいい」という感覚には気付かぬ振りをして生きてきた。 本当はとても心惹かれる存在だったのに。本当は猫が飼いたくて飼いたくてしょうがなかったのに。 どうせかなわない夢なので、夢はもともと無かったことにしてしまったほうが楽だった。 では、なぜその封印が解かれたのか。 解かれた場所は、何を隠そう、ムサビである。 あの、大学敷地内に数多く徘徊している「ムサビ猫」達と毎日のように顔を合わせているうちに、心の奥底に沈殿させていた思いがユラユラと湧き上がってきたのだ。 猫は家の近所でもよく目にしていたが、大概の町猫がそうであるように、警戒心バリバリ。半径3m以内には立ち入ることが出来なかった。祖母の発する暗黒のオーラが、周辺の猫を怯えさせていたのかもしれない。 だが入学してすぐに、ムサビ猫のあまりの無防備さに驚いた。科がある10号館から8号館の方へと歩いていく途中(10年以上前の話です。構内の構造はかなり違っているはず)、通り道に置かれている踏み石の一つに猫が寝そべっていたのだ。まだ肌寒い頃故に、太陽光で暖められた石はじんわり温い猫カウチと化していたのだろう。完全に腹を見せて忘我の表情だった。列の先頭から2~3人後ろを歩いていた私は、割と手前から猫の存在に気付いていた。我らが近づいていけば当然猫も場所を退くと思っていたのだが、何だか猫は全く立ち上がる気配なし。そうこうするうちに先頭の学生(新入生ではない)が猫のいる踏み石を大股でまたいで通過。後に続く人も、私も、同様に通過。今までの人生で決して有り得なかった光景だけにかなり戸惑ってしまった。猫はまたがれている間も、我関せずで踏み石のぬくもりを横っ腹で満喫しているようだった。後続の学生たちは、進路に突然現れた猫に驚き、「おお!ビビッたぁ」とか言いながら、やっぱりまたいで通過していた。 猫は人を警戒の対象として見なしていなかった。 そして、この学校では、コレが日常の風景であるらしいと気付くのに時間はかからなかった。 猫が人を警戒しないのは、警戒すべき事案が過去に無かったからだ。 猫は構内で気だるくのんびり過ごし、昼時になれば食堂に入って甘ったるい声で人に食べ物をせがみ、その代わり、たまに人が多少昼寝の邪魔をしてきても「しょうがねぇな・・」と辛抱し、時にはデッサンのモデルにもなってやったりする。 ムサビでは人と猫が共存しているのだ。いや、共生関係にあると言った方がいいのかもしれない。 近寄っても逃げられないのをいいことに、私はじっくりと猫を観察することが出来た。 そしてそのディテールの美しさに目覚めてしまったのである。 猫の魅力は外見だけではない。 在学中にこんなことがあった。 練習が終わり、着替えを済ませて校門で他の部員たちを待っていた。守衛室の付近で、私を含め4、5人が雑談しながら時間を潰していた。 その中の一人、大竹さんが、守衛室のカウンター(?)にもたれながらコーラを飲んでいた。もたれているすぐ側に、茶トラの猫が鎮座ましましていたのだが、皆それに気付きつつも、さしてリアクション無く、傍から見れば雑談の輪に猫も加わっているような、不思議な光景になっていた。 大竹さんが飲み終わったコーラの缶をもてあまし、カウンターの自分と猫のちょうど中間あたりに置いた。 そしてまた雑談をしているとカランカランと音が。缶が下に落ちたのだ。大竹さんはすぐにそれを拾い、同じ場所へ置いたのだが、直後にまた缶が落ちた。雑談が止まり、大竹さんだけでなく皆が(もしや)と猫を見つめる。 大竹さんがもう一度同じ場所に缶を置く。すると、猫は不機嫌そうな顔をしながら前足で目の前の缶を下に払い落としたのだ。 缶を落としていたのはやっぱり猫だった。 ちょっと面白くなってもう一度缶を置く大竹さん。 期待を裏切ることなく、猫は缶を落とした。 目の前に置かれて邪魔だったのだろう。(何度も置きやがって・・)と言いたげな、ふてくされた顔だった。 も一度置くと・・・缶は落とさなかった。代わりに、更に憮然とした顔をしてそっぽを向いた。舌打ちが聞こえてきそうだった。 じゃあその場から退去するかというとそういうわけでもない。アタシが先にここに居たんだからアタシが退くことないでしょ、という信念があるかのようだった。 こんなこともあった。 猫は頭に袋をかぶせられると後退りするという情報を得て、友人と10号館の階段踊り場でくつろいでいる猫に、画材が入っていた紙袋を被せてみたことがあった。情報の真偽を確かめるために必要な実験だった。 猫はさしたる抵抗も見せず袋を被せられ、そしてのそのそと後退りした。 袋はすぐに取ったが、被験者である猫は、大笑いして「かわいいー!」と騒ぐ馬鹿人間二人をチラッと睨み付けて、その場でまた寝そべって目を閉じた。 他にもいくつかちょっかいを出しにいった。 肉球を入念に観察させてもらいにいったり、どれくらいの距離があれば猫じゃらしに反応しなくなるかを実験したり。 度を越えた手出しをすることはなかったし、猫たちもそれを分かってたようで、コトが過ぎるのをしょうがなく辛抱していたのだと思う。 大竹さんのエピソードは、いうなればハプニングなのだが、私は端から反応を求めて猫にちょっかいを出している。 さぞ鬱陶しかった事だろう。でも猫たちは、寛大な心で私のちょっかいを耐えてしのんでくれていた。 猫は表情豊かだ。表情に、妙にヒューマニズムすら感じてしまう。 そして、その人間臭さを見てみたいがために手出しをしてしまう自分を呪ったが、お陰で猫の魅力を存分に満喫することが出来た。 猫さんたち、本当にごめんなさい。そしてありがとう。 あれから10年以上たった今、ムサビ猫とはとんとご無沙汰しているが、今でも猫のユートピアであることに変わりはないのだろうか。 多くの公共施設がそうであるように、ムサビも「猫への餌やり禁止!」令が出されたり、ましてや駆除なんかされてはいないだろうか。 猫が安穏として暮らせる空間は平和だ。猫の瞳には、その時の世相が投影されていると誰かが言っていた。本当にそのとおりだと思う。ムサビが平和な場所だったから、猫もおっとりしていたのだ。そして、安穏と暮らしている猫を見ると、自然と人も穏やかな気持ちになれる。素敵な相互作用ではないか。 私は、猫に惚れたというより、むしろムサビという空間を愛したがために、その中の象徴である生き物の「猫」に惚れてしまったのかもしれない。 金木犀の香り漂う中、程よく暖められたアスファルトの上で何匹もの猫たちがのんびり昼寝をする、そんな景色を思い浮かべつつ、ムサビが今も、いつまでも、猫の楽園であって欲しいと心から願う今日この頃である。 PR |


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