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□■ ある春の日の出来事
2008/04/23 04:46
 前回は仕事の忙しさと確定申告とが重なり、バタバタしているうちに投稿のタイミングを逸してしまいました。すみませんでした。。。
これからは、気持ちを切り替えて頑張りたいと思います。


 いや~しかし、春ですね、春!
新歓もうまくいっているようで何よりです。
 やはり春というと自分が入学した頃の新歓の事をよく思い出してしまうのですが、それと同じくらい、私の脳裏に深く焼き付いている出来事があるのです。


 それは、7年前のある春の日の出来事。


 当時私と妻が住んでいたのは、JR中野駅徒歩3分のところにある3階建のアパート。
その建物は、私の父のいとこに当たる人で、50歳代半ばの2人の姉弟、K子さんとHさんが所有しているものだった。

 K子さんが病気のため、茨城にいる彼女の娘さん家族と同居することになったので、それまでK子さんが住んでいたオーナー部屋(3階の角部屋・2LDK)を私達が相場の半額の家賃で住まわせてもらうことになったのだ。

 1階の角部屋に住んでいる弟のHさんは、高校生くらいの頃から精神・神経系の疾患がある人で、他人と接する事が苦手。
K子さんともそれ程仲が良かった訳でもないらしいが、昔からこの地に住んでいたため、近所で買い物する事はできるので、日常生活に支障はない。
 でもやはり仕事は困難だったようで、このアパートのゴミ出しが彼のもっぱらの仕事。
 彼は絵を描くのが好きで、1日1回程度買い物に出かける時以外、普段はずっと部屋にこもって絵を描き続けている。彼とは子供の頃から仲が良かったという私の父によれば、彼の夢は自分の個展を開くことだそうだ。

 彼のゴミ出しの仕事をサポートし、このアパートの管理人をする事、それと、私達の家賃を彼の生活費として彼に届ける事が、私達がここに住まわせてもらう条件だった。

 それまで、Hさんとは3~4回会ったことはあるが、どれもほんの一瞬で、会話など交したことも無く、最後に会ったのも10年以上前だ。

 私がここに住むことになって初めて彼に挨拶しに行った時、最初は心を閉ざしていた彼も、私が美大出身で絵が好きである事と、彼と仲良しだった父の息子である事で、少し心を開いてくれたようだった。


 そうしてここに住み始めて1年経ったある日の事。

 いつものように月の家賃を届けに、彼の部屋をノックするが、応答がない。
彼はよく居留守を使うので、これは別に珍しい事ではなかった。
しかし翌日も、そしてまた次の日も・・・・

いやな予感が走った。

 万一の時の為にK子さんから預かっていた合鍵で、急いで彼の部屋のドアを開けた。

 不安は的中した。
そこには、浴室のドアの前で裸で仰向けになって倒れているHさんの姿があった。
「Hさん!Hさん!」
と彼の名を呼びながら、彼の身体を揺さぶるも、その身体は既に冷たく、そして硬くなっていた。

 急いで救急車を呼んだ。

 なぜか消防車までやって来た。

 救急隊の人が、彼の状態を確認し、一通り私と彼との関係や、発見時の状況など色々聞かれた後、
「もう既に亡くなられている状態ですので、病院へは搬送せずに、このまま警察を呼びます」
との事。

 すぐに自転車に乗ったおまわりさんが2人やってきた。
また彼らもHさんの状態を確認し、一通り私と彼の関係や発見時の状況など色々聞いてきた。その後、
「事件性は低いですが、一応変死事件という扱いになるので、これから本署の刑事が来ますから、このまま待っててください。」との事。

 この間に、父と、K子さんの娘のT子さん(K子さんはこの時入院中)にそれぞれ連絡。
二人ともすぐにこちらへ向かうと言うが、まだこの後どうなるのかわからないし、もう刑事さん達が到着したようなので、またわかり次第連絡するから今は待ってて欲しいと伝え、一旦電話を切った。

 警察の1BOXカー1台とパトカーが2台、刑事さんや鑑識係の人など7~8人。
現場はけっこう騒然とした感じ。
アパートの他の住人や近所の人達がけげんそうにこちらを伺っている。
一人の刑事さんが私を探している様子。
するとまた父から電話。
「やっぱり俺、今からそっちに行くよ。」
「いや、もう刑事さん来てるし、今コッチもバタバタだから。この後俺もHさんもどこに行くかわからないし。あっ、刑事さんが呼んでるからまた後で!」
と言って切ると、またすぐに電話が鳴る。
「テメー、この野郎っ!俺に来るなっていうのか? だいたい人が話してる途中で電話切るんじゃねーよ! 俺とHちゃんはなぁ、子供の頃からよく一緒に釣りに行ったりして・・・うぅっ・・・・」
ダメだこりゃ。怒ったり泣いたり---うちの父の酒が入ってる時の典型パターンである。
 ただでさえ、仕事の途中にこの非常事態で、イラついていた私もキレた。
「うるせぇっ!今こっちはそれどこじゃねーんだよ!だいたい来るなっつってんじゃねーだろーがっ!今は待ってろっつってるだけだろーがっ!このバカタレ!」
横でヒヤヒヤしながら聞いていた妻、
「なにこんな時に親子ゲンカしてんのよ!しょーもない親子ね、まったく!」
確かにその通り、どっちもどっちである、と今にして思う私。

 刑事さんから事情聴取を受けた後、一通り捜査も終わり、
「事件性はほぼ無いと思われます。おそらく病死だろうと思いますが、死因が特定できないので、明日検案医に見てもらいます。ただこのままここに仏さんを置いて行く訳にはいかないので、今日は署に運びます。でも警察の車でも遺体を運搬するのは違法なので、葬儀屋さんの車を呼んでもらわないといけないのですが・・・知ってる葬儀屋さんはありますか?」
 へーそうなんだ。初めて知った私。
でもここに引っ越して一年の私には葬儀屋さんなど知る由も無い。結局警察の方で葬儀屋さんを手配してもらう事に。

 翌日T子さんと私と妻で中野警察署に行き、検案医の所見を聞く。
「一応ここでは、主に目視等でできる範囲の検案を行ないましたが、おそらく内蔵のどこからかの出血によるショック死と思われます。ですが、それがどこからの出血なのかが特定できないので、これから大塚の監察医務院に搬送して、行政解剖を行ないます。」との事。

 私達3人は私の車で、Hさんは昨日の葬儀屋さんの車で、それぞれ監察医務院に行った。
 2時間程待たされた後、結果を聞いた。
この辺りの記憶は定かではないが、たしか胃と十二指腸のあたりからの出血の痕跡が認められたとの事。
 以前、彼が通院していた病院のカルテにも、その辺りに潰瘍らしきものがあったそうなのである。

 さて、問題はこの後、どこにHさんを運ぶかなのだ。
この場でT子さんと葬儀屋さんで、Hさんの葬儀をどうするか相談した結果、特にお葬式は行なわず、火葬する前にごく親しい人だけで献花とお焼香だけして最後のお別れをするということになった。
 そのため、今日はこのまま火葬場に搬送、そこで保管してもらって、2日後に火葬ということに。
 とりあえずは一段落である。

 その翌日、駅前に買い物に行った妻が、何やらチラシのような紙を持って帰ってきた。

 その紙は、中野通り沿いの中野駅ガード下のギャラリーに飾る作品を募集しているというもの。
区役所に申し込めば、区民なら誰でも一週間そこを貸切にできるそうなのだ。当然、作品の運搬・取付も自分達で行なわなければならないのだが。

 速攻で区役所に予約の電話をし、GW頃の一週間を確保した。

 友人もいなく、ただひたすら絵を描き続け、最期まで孤独に人生を終えたHさん。
なんとか、ささやかではあるが、彼の個展を開きたいという夢をかなえてあげたいと思った。

 その夜、家主のいない彼の部屋にお邪魔し、彼が自身で作品集を作る為にと撮ってあった絵の写真を拝借。
 PCに取り込んで彼の個展のパンフを即興で作ってみた。

 翌日火葬場で、一時退院してきたK子さんとT子さんに昨日のいきさつを話し、彼の棺にこのパンフを入れさせてもらうことに。
 Hさんの個展が開けることを、なんとか火葬される前に、本人に知らせたかった。

 火葬に参列したのは、昔からHさんを知っている親戚のオジさんオバさんが10人ほどだが、皆、
「ありがとうね、Hちゃんもきっと喜んでるよ。」
と、私と妻にお礼の言葉をかけてくれるのだが、
 例によって、唯一私の父だけは、
「またお前は何の相談もなく、勝手に出しゃばったことしやがって! いい子ぶるんじゃねーっつんだよ!」
と、悪態をつく始末。
せっかくHさんのためにと思ってした事なのに!
「何だとぉ!別にいい子ぶってしたんじゃねーよ!・・・」
と、また私がキレかけた瞬間、オバさん達が
「そーよ、トシちゃん(父のこと・父の名にも俊が付くため)! ナニ言ってんの! せっかく俊成ちゃん達がこんなにいいのを作ってくれたのに。アンタは昔から口ばっかしで何もしてないじゃない!」
と、父を総攻撃。今回ばかりは相手が悪い。父はグゥの音も出なかった。
 ただ、Hさんの棺を閉める時、彼の亡骸にすがって一番大泣きしていたのは私の父だった。


 約一ヵ月後、Hさんの作品たちは中野駅のガード下に展示することができた。


 展示終了後、5~6通の手紙が区役所に届いた。

 そのどれもが、作品に感動した、という内容のもので、中にはこの絵を買いたいというものまであった。私と妻はとてもうれしくなった。

 区役所からもらったその手紙たちを、すぐにT子さん宛てに郵送。
彼女も泣きながら喜んでいた。


 でも、一番喜んでいたのはHさんであると、私達は信じている。



 ただ、唯一悔やまれるのは、

 私がもっと早く彼の部屋のドアを開けていたら・・・・もしかしたら・・・


 彼はまだ絵を描き続けることができていたのかも・・・



 そう考えると、悔やんでも悔やみきれない、私の心に一生残るであろう、この春の日の出来事なのです。



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