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□■ 私が今まで あなたのそばにいて
2008/06/26 23:58
 これぞ正に“最新”である群馬情報をお伝えしよう。


 本日(6月26日ではなく)7月4日、東銀座駅前に群馬県のパイロットショップ
『ぐんまちゃん家(ち)』がオープンした。


 その名称からツッコんでいてはキリがないので概要を紹介すると、施設は東銀座駅を出て正面にあるビルの1・2階を使用し、物産コーナーとなっている1階には、ダルマ(国内シェアトップ)、コケシ(動いたりしない方)、うどん、こんにゃく(国内シェアトップ)、嬬恋キャベツ、お米(雷の多い群馬にちなんだ「ゴロピカリ」というスレスレなネーミング)等々のプロダクツが紹介・販売されている。2階は催事場となっており、各種イベントをここで行う。目下世界遺産登録を目指している富岡製糸場のプロモーション活動の中央拠点ともなるであろう。


 今日開所されたばかりのこの施設を、もちろん私は見ていないのだが、おそらく陳列されている品々は高速道路や駅などの物産販売コーナーに並ぶものと特別違いがあるわけではなかろうと想像する。だが普段あまり意識することのないドメスティックな(この場合は群馬県だけだが)物流というものを、小学校以来もういちど日本地図上でなぞってみるということは、食の安全や食の自給率といった諸問題を考慮する上で無為ではない。

 また群馬は東京から思うほど遠くはない。首都圏近郊の中で比べても整ったスキー場やゴルフ場が多くあり、釣りやアウトドアを楽しめる自然が(整備が進み商業臭は否めないが)豊富に残る。もちろんふんだんに涌き出る温泉は古来より有名だ。積極的な観光案内を仕掛けるだけの材料は揃っている。原油を筆頭として各種物価高騰する昨今、深呼吸を楽しむために遠出をせねばならぬ理由はない。温暖化ガス削減にも貢献できると言っては、言い過ぎだろうか?



 皆さんも散歩がてら、一度のぞいてみては如何。
 ぐんまちゃん家、プッ!

 詳しくはwebでCheck!(←便利でドライな常套句)






 さて、「ぐんまちゃん家」。
 改めて言うが、銀座である。


 県在住者から見れば、よくぞまたGINZAに、と思う。たいしたものだと思う。
 止むことなく次々と集客力のある開発が進む東京ではあるが、ブランド力という勢力地図において“銀座”が未だ枢要な地位を占めていることには、変わりがない。

 地方の自活自立が求められる現状のアクションとして主要消費都市に“営業所”を設けるのだ。トライ&シーと言った贅沢を許さぬ財政状況からも場所選定は乾坤一擲の思いであっただろう。立地条件は重要である。銀座を行き交う人々の中で「国内産」「程よく近い郊外」を指向する個人や商社が立ち寄ってくれることを、臆面なく俗気を吐露すれば市県民税を納めている一人として希うものである。
 もちろん一県民としても、だ。




 銀座。



 とりとめもなく、ハナシは突然私事になるが、斯く言う私、あまり銀座に縁がない。
 未だに電車で行くにはどこでどう乗ればよいかも分かっていない。わざわざアップルストアに行く際にもクルマで行ったりする。



 銀座と私のかすかな縁を考えると、私が大学一年生を終えた春休み中のことを思い出す。



 美術大学を目指した高校3年に、地元の美術専門の塾に通った。
 そもそも美術系の建築科というのがマイノリティであるのか、ファイン系デザイン系の講座が毎日開かれていたのに対して、建築コースは週一度日曜日だけであり、私を含めわずか3人しか居ない受講生がハンバーガーをかじりながら静物デッサンや建築写生をするというようなのんびりしたものであった。

 講師は現役の芸大生だった。Iさんと言った。高校からラグビーを続けている彼は、大きくがっしりした体躯を持っており、それに似合わずか似合ってのことか、性格はどことなく瓢気て、おおざっぱにおおらかでテキトーであった。「お前ら学科も重要なんだぜ。ムリなのはわかるけどセンター試験で満点とるってオレの前で言ってくれよ、ウソでもイイから」。生徒の私たちはそんな彼を兄のように慕っていた。



 私が進学して一年生を終えたころ、I先生から「卒業製作の手伝いをして欲しい」と連絡があった。私は一も二もなく上野に参じた。

 今から思えばウソのようなハナシだが、彼や彼の友人である芸大生達のもとで建築の図面を引いたり模型製作をしたりする作業が楽しくて仕方がなかった。あこがれだった芸大での数日間は全てが刺激的で、日々深更に及ぶ作業も一向に苦にならなかった。あるとき製作のテーマと不可分につながるコンセプチュアルなモニュメントのデザインについて意見を求められ、スタッフ一同協議の上私のアイデアが採用されたときなど、それこそ天に登る心地であった。嬉々として図面を引いた。


 提出期限が明朝に迫った日の夕方、赤い目をしたスタッフが困りながら作業部屋に戻ってきた。学校の画材店から製作に必要な材料が売り切れてなくなってしまったと言う。どこか学外の画材店まで買いに行かねばならないが、作業は佳境、I先生を始めスタッフの先輩方は未完のパートを抱えており動けない。末輩の私に白羽の矢が立った。
 「モロダ、悪いけど急ぎでたのむ」と原チャのカギとお金を渡され、銀座の松屋まで材料を買いに行くこととなった。「はじめてのおつかい」である。

 その程度のお使いが、そんな大袈裟なものかと思うかも知れない。だがわずか上野から銀座まで行くだけのことに関し、当時の私は幾つかの阻害要因を抱えていた。


 その一つは、まったく地理的把握が出来ていないことである。「何々通りをまっすぐ言って何々交差点を右折して・・・」と説明を受けて地図まで書いてもらったのだが、如何にせん基準となる「何々通り」がどれであるかが私の中で定かでないのである。
 しかし、「オレはセンター試験で満点取ります!」と平気でウソを言ってしまう私は、「解りました、大丈夫です!」と返事をした。このいい加減さは、まことに危うい。

 もう一つが----こちらの方が論を絶して深刻であるが----実は当時の私、原付を運転できる条件を備えた人とそうでない人とが居ると仮定した場合、明らかに後者の立場にあった。言い方が迂遠だが、今の時代ここらへんの消息について公の場で詳らかに述べることは憚るべきだろう。つまり、持っていなかった。センター試験の総合得点がボーダーラインの半分以下だったにも拘らず「一次試験は、自信も根拠もありませんが多分大丈夫だと確信します」と平気でウソを言ってしまう私は、「了解、行ってきます!」とカギを受け取った。かつておおらかだった時代、官憲の目を気にしつつも原チャに乗って群馬の農道をコンビニまで往来していたのだ。都会の道に自信はなかったが多分大丈夫だと確信した。



 勇んで上野の森を出発した私であったが、ほどなくして第一の不安は適中した。道沿いに林立する雑居ビルに乱れ咲く看板が位置的感覚をマヒさせ、果たして今何m進んだかも分からない。通りの名称が記された標識も、交差点に吊られた辻表示も、よほど注意していない限り見落としてしまう。地図を見ようにも目印は要点のみが記されているだけである。何々交差点はまだか?それとも過ぎてしまったのか?アクセルを吹かすほどに不安は募って往った。

 第二の不安は恐怖心となって私に襲い掛かった。群馬の農道と異なり都会の車線は複数である。そこにおける右折とは単に右に曲がることを意味しない。予め右折車線に進入し、しかるのち信号機と往来を見定め、始めて右方向に進路を取って右折となる。稲田を渡る涼風とさざめく陽の照り返しを頬に受けて流すようなものとは根本的に異なり、圧倒的な量のトラフィックが排煙を切り裂いてばく進するさなかに飛び込むと言う行為は、当時の私にとってアクロバットと言ったほうが妥当だった。コンプライアンスの欠如を云々する以前に、想像力の至らぬ自分の軽挙を改めて悔いた。


 地理の不案内と交通の恐怖が相乗効果を為し、銀座松屋までの道のりは果てしなく遠く険しかった。上野では皆が材料の到着を待っている。緊張感、焦燥感、----真冬だというのに腋の下にべっとりと汗をかきつつ、ようやくのことで松屋に辿り着いた。「ここがあの有名な銀座なのだ」との感慨など、まったくあったものではない。夕刻混雑する店内に飛び込み、エレベーターを待つのももどかしく階段を駆け上がった。

 帰り道の方が幾分スムースではあったが一度二度の運転で慣れようものではなく、同様の苦労に苛まれながら芸大に戻った。いつまで経っても帰ってこない私をI先生やスタッフは心配して待っていた。「あぁお帰り、やっと戻ったか、随分遅いから心配してたよ」。私も無事戻れたことにほっとしたものだが、心配を掛けてしまった自分を情けなく思う気持ちの方が強い。加えて私はさらに残念なことを伝えなければならなかったのだ。
 「実は材料なんですが、売り切れだったんです」
 松屋にも、クダンの材料は置いてなかったのである。リアルタイムで情報をやり取りできるケータイなんどは、当時なかった。

 申し訳なさそうな私に「なんだとォ〜、あ〜ぁどうすんだよモロダァ」とI先生は笑いながらねぎらいの声を掛けてくれた。担当スタッフの方はあたふたしていたが、ないものは仕方がない。その後あるものでなんとか間に合わせたようだ。製作最終日であったのその夜、私は小平のアパートに戻った。




 「ぐんまちゃん家」から、大きく話が逸れた。



 晴れてぐんまちゃん家がオープンした銀座。一般的なイメージは別として、私の経験の中で結像するそこは、むしろ芸大の数日間の思いでに従うかたちで存在している。



 銀座に関してもう一つ思い浮かんだのが、古内東子の「銀座」という曲である。三鷹で仕事していた頃、車中のラジオでよく流れていて、好きだった。本稿のタイトルはその一節から採った。


 私が今まで あなたのそばにいて


 今までも東京のそばにあった群馬県。古内東子の銀座においてつづく言葉は
「なにか一つでもできたのならば 教えてよ」である。



 これから大都市東京に、地方群馬ができることはたくさんある。ぐんまちゃん家から多くの提案が発信されることを祈っている。










 然してうるおう我が自治体の市民税が下がらんことを。プッ!



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