月面に着陸した二人が盛り上がっている間、一人宇宙船に残って月の上を周回していた宇宙飛行士。彼が史上最も孤独な人間らしい。
あらゆる人類と距離を置き、宇宙規模で一人ぼっちになっていた記録保持者だ。
世界中から注目され、使命感にあふれ、そんなことを考える余裕があったか不明だが、事実には違いない。
東京郊外の大学に合格した僕は、学校のそばにアパートを借りた。この春から一人暮らしが始まる。
余裕をもって上京したので、入学式までまだ数日ある。
なにもない部屋に、実家から送った家財道具、祖父母が揃えてくれた電化製品一式を配置する。必要なものを書き出し、買い物する。小さいながらも自分の城を作り上げる作業は楽しいものだった。すべてが胸躍るイベントだった。
夜、充実した気持ちでフローリングに直に敷いた布団に入った。軽い興奮状態にあるのか、なかなか寝付けない。
ふと気付いた。
一人だ。身近に知っている人間が誰もいない。
入試のときも似た状況だったが、大イベントを前にそんなことを考える余裕はなかった。
しかし、今、僕は確かに東京という異空間で一人ぼっちだ。
寂しい。こういう心の隙を狙う商売がはびこるのも分かる気がする。
窓から覗く冴えた満月に足が震えた。
翌日、カーテンが欲しくなり、その手の店を探すついでに近場の散策に出ることにした。
いろいろな発見があった。大通りから少し入れば畑や果樹園が結構あること。駅の裏側にはなぜか歯医者とクリーニング屋が多いこと。市民センター西側の遊歩道は、犬の散歩でちょっとした渋滞が発生すること。その遊歩道に沿った小川にはアヒルが少なくとも三羽いること。そして民家の塀を越えて遊歩道に大きくはみ出した桜が本当にきれいなこと。
かなり歩き回ったが、結局、目的の店は見つからない。暮れかけた空に、昨日と同じ半月が薄く昇り始めている。今夜もこいつに見られながら寝ることになりそうだ。
アパートに着くと、玄関前の塊が目についた。茶トラの子猫が丸まっていた。僕の存在を認めたものの、体を起こして「にい」と鳴くだけで逃げる様子はない。
総菜屋で買ってきたおかずを少し分けてやると、不器用に前足を使いながら懸命に歯を立てている。固い物はまだ食べ慣れていないようだ。
「おまえも一人か」
僕のつぶやきを当然のように無視し、猫は目の前の餌と格闘を続けている。
子猫の愛らしさは僕の独占欲をくすぐるのに十分すぎたが、多くのアパートがそうであるように、ここでもペットは飼えない約束だ。
無垢な瞳でまた見上げられたら、決まりを守りきる自信がない。食べ終わるのを待たず、猫を廊下に残したまま僕は部屋の扉を閉めた。
疲れたこともあり、布団に潜るとすぐに寝入ったのだが、夜中に妙な音で起こされた。
窓を開け、耳を澄ましてみる。昨日より高い場所にいる月が、なんだか僕をあざ笑っているように見えた。
アパート裏の畑の方から細く響く声がする。猫の鳴き声だ。
「あの子猫か?」
嫌な胸騒ぎを覚え、僕は部屋から飛び出た。
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「子猫が高い木に登ってしまって下りられない」
から
「大猫が高い木に登ってしまって下りられない」
まで、とにかく救え!
『ザ・レスキュー』
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「古井戸に子猫が落ちて出られない」との緊急通報
詳細:
猫の鳴き声が止まないので、不審に思った近隣住民(大学生)が現場に向かったところ、普段は蓋がされている古井戸が何者かによって開けられ、子猫が落ちているのを発見。通報の運びとなった。
井戸は現在は使われておらず、水も涸れている。農業用の取水井戸で、深さは推定8m、穴の直径は約40cmとなっている。
子猫の怪我の具合などは不明だが、鳴き声は徐々に弱まってきているという。迅速なレスキューが要求される。
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*レスキューの流れ
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まず、通報より数分以内に「子猫レスキュー作戦本部」が設置され、会議室に全隊員及び通報者が集められる。
今回の現場詳細のプリントアウトが隊長から全員に配付される。
あまりの惨状にプリントから目を背ける隊員、息をのむ隊員もいる。すすり泣きも聞こえる。
「なお、通報者によれば、子猫の性別は不明。柄は茶トラ。名前も特につけられていないという話だ。なお、みんな知っているとは思うが、この春から新しくC班が設立された。A班、B班とともに協力し、活動にあたってほしい」
隊長の力強い言葉に全員の心が一つになる。
続いて隊長が3つの班に隊員を分配。今回の作戦では、
・A班 4名
・B班 3名
・C班 1名
という配置になった。
以下、各班ごとにレスキュー活動の様子を追う。
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■A班「救出実行部隊」
レスキューの現場に赴き、実際に救出活動を行う。
●『作戦会議:救出方法の決定』
穴の直径が40cmとなんとか人間が入れる大きさであるため、班長が直接レスキューに向かう方法で決定した。
予想図:(画・A班班長)
(つづく)
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■B班「キャンペーンソング部隊」
今回の作戦用のキャンペーンソングを作成する。
●『作戦会議:曲および詞の決定』
通報者からの「最初は寂しくて不安だけど、終わりは幸せそうな感じの曲に」「歌詞に『にゃんにゃん』と入れてほしい」との要望に対応。
歌詞:
深くて寒い穴の底 かすかに覗くおぼろ月
ぼくは光に手を伸ばす 届かない届かない
神様のアドリブが 少し肌に冷たくて
毛穴が固くなる
嗚呼 できるならば 教えてほしい
時間に依存する 命の理由(わけ)を
自己矛盾に目を伏せ 朽ち果てる息吹を
(セリフ)「カビキラーの容器にカビはえた」
でも今はとてもハッピー にゃんにゃん
※間奏
毛穴が固くなる
教えてほしい
自己矛盾に目を伏せ 朽ち果てる息吹を
(セリフ)「テプラ本体にテプラと印字したテプラを貼った」
でも今はとてもハッピー にゃんにゃん
前回の他案件用キャンペーンソングは、アコギ2本でデスメタルという無理がたたってか、あまり評判がよくなかった。そこで今回は趣向を変え、リーダーのKAZZ(B)作曲のボサノバとなった。
曲はもちろんのこと、TATSUYA(Vo, G)の作った歌詞に「月」が登場したことが通報者にとって予期せぬ幸運だったようで、いたく気に入られた様子。
しかし「猫の性別が不明であるにもかかわらず『ぼく』とするのはいかがなものか」とTOSHIKI(D)から鋭い指摘があり、会議室の空気が一触即発状態となる。
作詞担当のTATSUYA(Vo, G)が、すかさず太田裕美や菊池桃子などの女子が歌いあげる「ぼく」の例を挙げ、この場は収まった。
彼らキャンペーンソング部隊に「音楽性の違い」は存在しない。
●『作戦会議:曲タイトルの決定』
幸せな猫。幸せの猫。猫の幸福。幸福猫。幸せ一杯猫一杯。猫に幸あれ。猫色幸せ模様。幸福行きの猫。笑顔の猫。猫と呼ばないで。猫芝居。猫に誘われて。猫空港。予備の猫。三三猫拍子。目覚める猫。猫足配線。猫の意見に賛成だ。それはかつては猫と呼ばれた肉片。猫に書いたラブレター。病気の猫はいないんだ。
など、様々なタイトル候補が出され、曲名が決定した。
タイトル:「猫ハッピー」
●『作戦会議:CDジャケットデザインの決定』
張りつめた空気を和まそうとTATSUYA(Vo, G)が「これでいいんじゃない?」と、会議室に残されていた紙を指す。
候補1:(画・A班隊長)
皆に一蹴される。
「ボサノバだから、夏の初めの気だるさを前面に出したい」と通報者から意見が出される。
候補2:(画・通報者)
感嘆の声があがる。
しかしTATSUYA(Vo, G)が、すかさず「リスナーを良い意味で裏切りたい」と真っ向から対立。
候補3:(案・TATSUYA)
「それならば、裏切りを償う要素も盛り込むべきだ」とTOSHIKI(D)も譲らない。
候補4:(補足・TOSHIKI)
リーダーのKAZZ(B)が「ミステリアスな遊び心も必要」と、最終的なまとめに入った。
決定:(補足・KAZZ)
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■New! C班「Tシャツ部隊」
今回の作戦用のTシャツを作成する。
●『作戦会議:デザインの決定』
「ちょっと〜、見たよ見たよ、さっきのイラスト。超イケてんじゃん。CDの方は残念だったけど、あれあのままTシャツにしたら絶対カッコイイよ〜」
決定:
●『作戦会議:素材の決定』
「綿でいいよね」
決定:綿100%
●『作戦会議:枚数の決定』
「こういうのってさ〜、プリントするための原盤を作るのにある程度かかるけど、あとは白いTシャツのお金だけなんだわ。今ね、世界的に綿花って供給過剰状態でさ(中略)というわけで、ぶっちゃけ50着以下だったら何着でも値段変わんないけど、どうしちゃう?」
決定:50着
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●A班続報
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なお、全隊員が民間の有志であり、レスキュー活動その他はすべて彼らの趣味でやっていることをご理解願いたい。
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通報者への請求額
¥680,000
(CD及びTシャツ製作実費のみなのでかなり良心的)
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結局、僕は子猫をこっそり飼うことにした。「ルナ」と名づけたメス猫は、枕元で小さな寝息をたてている。
「もう寂しくない」
ルナ、わけのわからない犬のCD、とても着たまま出歩けないTシャツに囲まれた僕を見下ろし、今夜も満月が笑っていた。
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(忘れかけていた「猫の会議」改題、及びいい感じに加筆しようとして大失敗。修正しようとして泥沼)
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